永田祐子さんの証

私がイエスキリストに出会ってクリスチャンになったのは、アメリカの大学に留学していた21歳の時です。子どもの時からおとなしい性格だったのもあり、自分にあまり自信がありませんでした。

中学、高校に進むにつれ「だれも私のことを好きじゃない」という思いにとらわれるようになりました。

表面上、学校には普通に通い元気なふりをしていましたが、正直色々なことに絶望していて、今までの友達や家族からも、日本の国からも出て行き、誰も私を知らないところで一からスタートしたいという気持ちでいました。

そのような思いから、高校を卒業してすぐにアメリカに留学することに決めました。

今思えば何かを必死で求めていたのだと思います。変わりたい、アメリカに行けば何かが見つかるという思いがどこかにあったように思います。

そんな時、同期生の友人が私をバイブルスタディに誘ってくれました。バイブルスタディでどんなことを話してくれたかは、正直に言うと何も覚えていません。ただ、その場所がものすごくあたたかい空間だったことは、よく覚えています。

ただみんなで輪になり賛美を歌い食事をしていただけなのに、涙が出てきました。

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その時、今まで感じたことのない深い平安を感じました。うまく一言では言えないのですが、その時私が感じた平安は、「救い」でした。ずっと探していた救いを私は見つけたんだと思いました。テストで良い点が取れたり、何か良いことがあったりすると、一時的にいい気持ちになります。でもそれはずっとは続きません。でも神様が与えてくれた平安は、永遠に残る平安でした。

また、イザヤ43章に書いてある御言葉が私の心に衝撃を与えました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」私は誰からも好かれてないと思っていたけど、神様が私を愛してくれているんだ。ただその真実が私を救ってくれました。

その時は私は21歳で、若かったのもあり、聖書を読み始めてから半年ほどで、素直に信じ、洗礼を受けました。でも、実はその後が結構大変でした。信じて洗礼を受けたから、全部が上手くいくかというとそうではないです。人それぞれですので、全員がそうでは決してないですが、私の場合は、今まで見えていなかった自分の醜い罪の部分が神様の光の中に照らされ、辛い時期を通されました。

神様から取り扱われたのは、人を妬む罪についてです。例えば、何かに優れている友達、音楽(ピアノ、歌が上手)に長けている友人、同じ留学生仲間でも英語をすぐに習得して流暢に話せる友達、また明るくて話すのが上手な友達、いつも人が集まる中で真ん中にいる友達、そう言った周りの人の素晴らしいところを、喜ぶのではなくて妬んでいました。また、自分と比較して、どうして神様は彼らに素晴らしいものを与えて、私には与えてくれなかったのだろう、と思って泣いたり落ち込んだりしていました。

その反面、自分が注目されなかったり、大切に扱ってもらえないと、怒ったりしました。それが1番ひどく目に見えてあらわれたのが、洗礼を受けた後の時期でした。その頃、アメリカ人や日本人の女の子たちと6人で一つの大きな家に住んでいました。ルームメイトの女の子たちは、みんなクリスチャンでした。彼女たちは本当に優しくて、才能もあって、美しくて、そのためか私の劣等感がマックスになってしまったんです。一時期は、部屋に閉じこもって毎日のように泣いていました。

幸いだったのは、ルームメイトたちは、本当に愛があって、入れ替わり立ち代り私の部屋をノックして入ってきて、私の話を聞いてくれました。時には厳しく叱ってくれました。でも叱られても、不思議と傷つかなかったんです。彼女たちが愛を持って叱ってくれたからです。

私は自分の嫌な真っ黒な面を、隠したかったけれど、それがどんどん光に照らされて明るみに出て、もう隠せませんでした。だから、神様にこう言って謝りました。「神様、私は自己中心です。自分に注目してもらいたい、自分がかわいがってもらいたい。そうでないと悲しくなって怒りました。ごめんなさい。」私は、自分のために生きていたことに気がつきました。それが罪であって、その結果自分自身を落ち込ませ、悲しませていました。

聖書で、「十字架を背負い、私についてきなさい」という言葉があります。そこまでなら聞いたことがある人も多いでしょう。ルカ9:23-24 「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を背負い、わたしについて来なさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを得るのです。」私は、いかに自分の命を救うため、自分を守って、傷つかないように、自分ばかり大事に生きてきたかを示されました。実際のところ、その生き方は惨めでした。

でもそうではなくて、神様のために生きる、神様が喜ぶ生き方をしよう、自分の命を失う生き方をしようと心に決めました。その時、すごく心が楽になったのを覚えています。それからは、周りの人の良いところを見ても喜べるようになりました。人はみんな神様が作った素晴らしい作品だから、素晴らしくて当たり前です。また、私も神様によって作られた素晴らしい作品だ、と信じられるようになりました。

2021年12月に、大阪エリムキリスト教会の伝道師をしている永田吉秀さんと結婚し、結婚を機に大阪に引っ越してきました。大阪エリムキリスト教会は、純粋に神さまを信じているメンバーが集う温かい雰囲気の教会です。ぜひお気軽にお越しくださいね!

Kさんの証

私が信仰に導かれましたのは、2006年の頃でした。当時、私たちは家族の問題を抱えていて、まるで迷路の中にいるようでした。そんなある日、妻が突然「教会に行きたい!」と言い出したのです。

私はそれまで、キリスト教には全く関心がありませんでした。むしろ、批判的にとらえていた方です。ところがその時はどういう訳か、妻の言葉に従って教会へと足を運ぼうという気持ちになったのです。

教会に行きたいといっても最初はどこに行けば良いか分からず、しばらくの間教会探しをしました。いくつかの教会を訪問し回り道をしましたが、神様の導きによって大阪エリムキリスト教会へと導かれました。

今思い返しますとお恥ずかしい話ですが、洗礼を受けた時に牧師先生から「どんなお気持ちですか?」と聞かれた時、私たち夫婦は「さあ、どうでしょう?」と、とぼけた返事をしておりました。ただ二人とも、不思議な平安と幸福感に包まれていたことはしっかりと覚えています。

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教会に通い始めて何年か経った時のことです。牧師先生が「赦し」についてのメッセージをされました。その時、私たち夫婦が信仰を求めた一番の理由が、まさにここにあったのだとハッキリ気づかされました。なぜなら、私たちはずっと「赦せない思い」を心に閉じ込めていたのです。

牧師先生はこうおっしゃいました。「赦すということは感情ではありません。赦せなくとも、赦すのです。神様の前で赦しますと決心して、口で告白しましょう!」

それまで、私たち夫婦は赦せないことは仕方のないことだと思い込んでいました。しかし、それが罪であることに気づかされました。私たち夫婦は、こう宣言しました。「赦せていない私たちを赦してください!赦します!主よ、ありがとうございます!」

テサロニケ人への手紙5:16-18 

「いつも喜びに溢れていなさい。いつも祈りに励みなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられることです。」

神様は素晴らしいお方です!当初は、教会に通う私たち夫婦を「そのうちやめるだろう」と冷ややかに見ていた家族が、いつの間にか教会に導かれるようになりました。子供達も、それぞれの時期に洗礼を受けるように導かれました。

また今は亡き家内の父も、私たちの信仰を見て大変喜んでくださり、自ら進んで洗礼を受け、同じ信仰を持つものとされたことにも心から感謝しております。

最後に、生後一ヶ月から私たち夫婦と共に礼拝に参加している孫娘も、心優しい子に成長し洗礼にも授かれたことに心から主に感謝いたします。

Aさんの証

私が糖尿病と言われたのは、2004年の時でした。元々、右目が見えなくなっていたところに左目まで真っ白になってしまい、白内障だと診断され手術をすることになりました。10月27日に入院し、検査をしたところ、血糖値が400で糖尿病だと診断されました。高校生の時にも糖尿病の可能性があると言われたことがありました。

糖尿病だと診断され、落ち込んでしまい、2日間祈ることも、聖書を読むこともできませんでした。

しかしそんな中、神様は私にこう語りかけ、元気付けてくださいました。

「恐れないで、ただ信じていなさい。そうすれば、娘はなおります。」(ルカ8:50)

また榮先生や前田先生、そして教会メンバーの方々のお祈りのおかげで、元気が出てきました。大阪エリムキリスト教会と出会えて、本当に良かったです。

その後も、神様は多くの御言葉をくださいました。

「愛する者よ。あなたがたましいに平安を得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。(3ヨハネ2)

左目の手術は11月末に延期となり、身体は快復へと向かっていました。教会の友人から「A兄が休んでいると、なんだか物足りない。」と言われ、嬉しかったです。感謝なことに12月24日に退院することができ、その足で生駒聖書学院教会のクリスマスイブ礼拝に行くことができました。

現在は血糖値は100前後まで下がりました。もしあの時の入院が無かったら、左目も糖尿病も悪くなる一方だったことを思うと、感謝しかありません。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3:11)

これからも主と共に歩んでいきます。

Sさんの証

ハレルヤ!主の御名をほめたたえます。私が教会に導かれたいきさつをお話しします。

約20年前、家庭内で問題が起こり、悩んでいました。でも遠くに住んでいる実家の親にはとても心配をかけられないと思い、奈良に住んでいた叔母に相談することにしました。
叔母はクリスチャンで大阪エリムキリスト教会に通っていました。叔母は「牧師の榮先生とお話をしたらいいよ」と勧めてくれたので、当時新世界にあった教会へと足を運びました。

榮牧師は、礼拝前に話す時間を作ってくださいました。そして、とても温厚な顔で私の話を聞いてくださり、最後に「お祈りしましょう」と言って、一緒に祈ってくださいました。
正直に言うと、私はすぐにでも解決の道を教えてもらえると思っていたので、お祈りの効果はいつ出るのか、これだけで本当に悩みは解決できるのだろうか、と不安もありました。

悪いことは重なるもので、同じ時期に子宮と卵巣に病気が見つかり、手術をしなければなりませんでした。そのような状況の中で教会に通い始めたのですが、心の中では、どうして私ばかりにこのような困難が続くだろうかと葛藤がありました。神様が、この問題から本当に救ってくださるのだろうかと、不安ばかりでした。でも、自分でいくら考えても解決することはありませんでした。

そんな時、ある聖書の御言葉が私の心に留まりました。
「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。
あなたがたを、耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、
試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」1コリント10:13

それはまるで、神様が私にだけ特別に語ってくださったようでした。神様は、本当に私のことを何でも知っておられるのだ、と思いました。私の苦しみを理解し、そして脱出の道も備えてくださっているのだと思うと、気持ちがとても楽になりました。

「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」伝道者の書3:4
もちろん、イエス様を信じたからといって、目の前の試練が無くなった訳ではありません。試練は絶えずやってくるものです。しかし、私たちの人生には定まった時があり、悲しみの時もあれば、祝福の時もやってくるのだと、聖書の御言葉を通して教えられました。
「神の時」に逆らうのでは無く、今がどういう時期なのかを見極めて、その「時」に従い生きる人生こそ幸いな人生だと言えるのでしょう。日々、御言葉を学び、祈り、すべてのことに感謝し、イエス様とともに生きる人生を歩んでいきたいと心から思いました。

今振り返ってみると、あの時の苦しい体験があったからこそ、神様に出会うことができ、神様の大きな愛を知ることができたのだと思います。イエス様に出会っていなければ、私は未だ迷いと悩みの中にあったことでしょう。
イエス様のもとに導いてくれた、今は天国にいる叔母に心から感謝しています。「神のなさることは、すべて時にかなって美しいのです。」アーメン。

Nさんの証

私は、昨年の暮れから消化器系の不調でご飯もまともに喉を通らない状態でした。腹部の日常的な圧迫感、肝臓の血管にできた腫瘍(良性であるものの)による悪寒や痛みに苦しめられ、どんどんやつれていき、仕事も半分ほど休まなければならなくなりました。経済的にも困窮していき、八方ふさがりの状態でした。
とても悩みました。何が悪かったのか、罪を犯した結果がこういう状態に結びついているのか?しかし悩んでも答えを出すことはできませんでした。

そんな中、今までにないほどにイエスさまの御名によって祈り始めました。そうすると、不思議なことに自分の命は洗礼を受けた時から主に委ねたものであったことを思い出しました。また、自分がジタバタしたところで状況は変わることがない、しかし全ては主が支配しておられることだから大丈夫だという安心感が与えられました。

心を神に向けるために、自分ができることから始めようと思いました。すがるような思いで、まずは朝、自分に打ち勝つためにできる限り早天祈祷会に参加しようと決めました。早天祈祷会に出ることができれば、1日が守られる、勝利できると考えるようになりました。

そうしていくうちに、体調は快挙に向かっていきました。不思議と、教会に来ると身体が楽なのです。食欲も少しずつですが戻ってきました。経済的にも、ギリギリではあったにしても必要が与えられました。

思い返せば、一連の流れの中で神が私に教えようとされたのは、打算や思惑を捨てて、ただ赤子のような気持ちで祈ることだったのだと感じています。そのことに気がついたことで、精神的にもぶれることが少なくなりました。この気持ちを忘れないように、いつも主なるイエスさまを心に留めていきたいと思います。